世界中を心から笑顔に!ちょんまげ姿のパフォーマー渡辺好博さん

自分の足だけでアメリカ・日本を旅するパフォーマー。 みんなを笑顔にするためにはちょんまげ姿にもなる。 日本から世界へ羽ばたいた渡辺好博さん、登場!


1万4千キロにおよぶ恩師追悼の旅 


──今の活動内容について教えてください。 


渡辺 日本とアメリカでパフォーマーとして活動をしています。役者もやっていますが、演技に限定して活動しているわけではないので、パフォーマー(演技や演奏など表現活動をする人全般を意味する)という表現がいいかもしれません。


 ──アメリカにはいつ頃からいるんでしょうか。 


渡辺 高校を卒業してハリウッドスターになろうとカリフォルニアへ飛び込んでいきました。1998年でしたね。サンフランシスコから5時間も北へ進んだ田舎町で勉強をはじめました。

高校の先生に紹介していただいて、日本人が周りにいない環境で演技を練習していたんです。 


──ハリウッドスターですか!渡米したときには英語を十分に話せましたか。


 渡辺 日本で英語を一生懸命、勉強して準備して行きました。なので、アメリカに向かうころには英語がつかえていました。そのころ、最初の演劇の先生としてお世話になった方がジョンさんとレベッカさんというご夫婦でした。ご自身も監督・女優として活躍されていたので演技に関することはもちろん、照明や音響などさまざまなことを教わりましたね。その後、アメリカでの永住権を取り、日本とアメリカを往復する生活をしてきました。

演劇の恩師レベッカさん


──ジョンさんとレベッカさんとの思い出に残るエピソードなど教えてもらえますか。


 渡辺 レベッカさんにはお母さんのように食事の心配をしてもらったり、恋愛の相談にのってもらったりしていました。

活動拠点を移動してからもときどき、メッセージをやりとりして遠くにいながらつながりを感じていました。

2013年、ニューヨークに滞在しているとき、フェイスブックを開くと、ジョンさんの投稿が目に入りました。そこにはレベッカさんが病院へ入院していて、今夜が山場かもしれないと書いてありました。もう10年も会っていなくて、驚きを隠せなかったのですが、レベッカさんは翌日に亡くなりました。 あまりの悔しさに心に穴があくのを感じました。

そのときに「自分で思っていた以上に2人からの影響は大きかったんだ」と気づきました。もっと早く気づいていれば、電話で話したり、会いに行けたかもしれない。フェイスブックに依存して、つながっていると油断していました。


 ──お世話になった先生の他界、つらい経験でしたね……。


 渡辺 時代は便利になったけれど、人とのつながりは本物なのか、自分も含め社会に問いかけたいと思ったこともあり、アナログな方法で追悼のお礼をしようと思いました。

そして、レベッカさんの人生について知るためにニューヨークからカリフォルニアまで歩く旅をはじめたんです。距離にして6,000キロでしたが、彼女が生前に仲のよかった方へインタビューしながら、ジグザグにアメリカ大陸を歩きました。

──徒歩で6,000km、想像を絶する移動距離ですが、ヒッチハイクなども利用しなかったのですか。


 渡辺 車には一切乗らず、自分の足だけで移動しました。

自分の足だけで歩かなくては意味がなくなってしまうと思ったからです。

そして半年後、カリフォルニアにあるレベッカさんの墓前へたどり着きました。お墓といっても、みんなでお酒を飲んだり、たばこを吸ったりして‬‬楽しく‬過ごした生前レベッカさんが好きだった焚き火の場所に遺灰をまいたお墓です。ご遺族から遺骨のちいさなかけらをいただき、昔を振り返りました。

日本がとても好きな方で「いつか日本を案内してほしい」と言われていたのですが、約束がかなわなかったことが悔しく、遺骨をもって日本を旅することに決めたんです。  


47都道府県、足だけですべて歩いて縦断した 


──日本の旅をはじめた頃、ちょんまげにしたのですか。  


渡辺 アメリカの旅が終わるころに、イベントがあり、偶然ちょんまげにしていたんですね。

レベッカさんの「あなたらしく生きなさい」「人生でなにが一番大切か、自分で決めていいんだよ」という言葉を体現しようと、日本らしい姿としてちょんまげ姿での日本縦断を決めました。

──歩いて日本中をまわるとは驚きです!そのときもバスなどは使わなかったのですか。 


渡辺 歩いて旅をしなくては意味がなくなってしまうので、すべて歩きました。

もちろん北海道から青森と鹿児島から沖縄へは歩けないのでフェリーに乗りましたがそれ以外はすべて歩きました。旅の途中で今までご縁があった人たちに会ってまわったので、車で食事にいくことはありましたけど、かならず元の場所へもどり旅を再開しました。

その旅を2014年6月に北海道の宗谷岬からスタートして、ジグザグで都道府県を歩き、最後には母が住む長崎へたどり着きました。

途中、アメリカの永住権の関係で渡米もしましたが、日本全国8,000km歩き、2016年の2月9日に旅を終えました。


 ──本当に素晴らしい経験ですね。レベッカさんと日本を歩き、なにか伝えたいことなどはありましたか。  


渡辺 レベッカさんには十分日本を楽しんで頂いたと思います。日本は自然が美しく、人も親切ですばらしい国です。しかし、皆さん人生を心から楽しんでいるのか、生きている命に感謝できているのかという疑問がありました。そして個性を大事にしてほしいなと思っています。

もともと日本人は出る杭を打つ文化があって、良さも悪さもあると思うのですが、価値観がごちゃごちゃになってわからなくなっているのではないかと思うんです。だから、日本人らしい姿で日本を歩きたいと思って、ちょんまげで日本縦断を決めました。

 このちょんまげは「茶筅髷(ちゃせんまげ)」というのですが、月代は目上の人たちの頭皮が薄くなる姿をはずかしめないために生まれた髪型だといわれています。若い武士がお殿様にあわせて、髪を剃ったんですね。思いやりや覚悟から生まれた文化じゃないでしょうか。

今の時代、バーコードヘアーの上司をまねする新入社員はいませんよね。茶筅髷の文化がすべて良いかは一概には言えませんが、心から人を思いやる文化が失われているんじゃないかと思うんです。


 世界中の一人ひとりが心から笑顔になれる世界にしたい

──すべての旅を通して苦労したことはありますか。 


渡辺 アメリカでは自然との対峙で苦労しました。大雪のなか寝袋すらもたず旅がはじまり、竜巻や洪水に巻き込まれたり、ときには山の上で雷雲にのまれて無事を祈りながら眠る夜もありました。コヨーテに吠えられる夜もありましたね。

 日本でも大雨などの困難はありましたが、山が多いことが大変でした。熱中症やぎっくり腰にもなりましたね。そして、道は狭いし寝泊まりする場所の確保が大変でした。

北海道の道の駅みたいに土地が広いところではいいのですが、それ以外のところでは眠る場所を確保するのに苦労しましたね。


 ──眠る場所探しで苦労するのは大変でしたね。ストレスなどもあったでしょうね。


 渡辺 1日3~40km夜中まで歩いて、朝方に散歩しているおじいちゃんおばあちゃんに起こされたり、道の駅の職員に怒られて、疲れがとれないまま出発する朝もあり、ストレスは感じていました。

「みんなを笑顔にしたい」という思いでパフォーマーとして旅をしているので、目立つことは仕方のないことですが、心から休めるというタイミングはありませんでしたね。

それでも、大きな病気をすることはありませんでした。アメリカとあわせて14,000km歩いたことになりますが、体調が持ちこたえたのは丈夫に産んでもらえたおかげですね。 

──様々な苦労があった一方で、旅を通して楽しかったことはありますか。  


渡辺 人との出会いがご褒美でしたね。お祭りや地域ごとの文化を学ばせてもらいました。

旅の途中に富士山の頂上までのぼったのですが、道中の樹海で自ら命を絶とうとする人に出会いました。1時間ほど話していたら元気になって帰って行かれたのですが「捨てる命があるのなら、その命を人のためにつかったらどうですか」と伝えたんですね。

自分がしたいことがわからなくても、人に喜んでもらえれば楽しいし良いことじゃないですかと言ったその瞬間、樹海で迷っていたその人の目がキラリと輝くのがわかりました。


 ──富士山へ登ったことも驚きますが、追悼の旅が人を救うことへもつながったのですね。最後に、これからこだわりたいことを教えてください。


 渡辺 これは今までもこだわってきたのですが、世界中の人みんなが生まれてきたことを楽しみ、心から笑顔になれる世界にしていきたいです。そのために、地道に出会った人を一人ひとり元気にしていきたいですね。

そして、今までの素晴らしいご縁をつなぎながら、世界へ発信していきたいです。日本人として世界へメッセージを発信して、やってやりたいですね。

──渡辺さんから「何かできる人」というオーラを本当に感じますよ。若くしてたくさんの経験をされているので、これからの活躍も楽しみです。


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